2013年7月20日土曜日

新宮市の特異な幼保関係について(1)

加藤俊介 


 新宮市の幼稚園と保育園の関係は全国でも非常に特殊なものであることが、現地調査及びインタビューの結果から分かりました。恐らく新宮市にお住まいの方にとっては、ごくごく当たり前のものかもしれませんが、他地域でもあまり例のない仕組みですのでここに整理したいと思います。

<グラフ1>

                           (新宮市の福祉から作成)

 上のグラフは市が発行している冊子「新宮市の福祉」のデータから作成したもので、平成元年から平成24年までの保育園における幼児数の推移を表しています。非常に特徴的なのは赤色で示された5歳児の数です。普通に考えれば、3歳児であった子が翌年4歳児となり翌々年は5歳児となるわけですから、途中入園あるいは退園により多少の違いはでるとしても、5歳児はほぼ3、4歳と同じ数になるはずです。しかし、新宮市の場合はそうはなっておらず、4歳児と比べて5歳児の数が激減しています。またその傾向は年を遡るほど顕著に表れています。
1. 4歳児から5歳児になる時期に児童が激減するのはなぜか?
 4歳児から5歳児になるタイミングで保育園の児童数が減少しているのは、新宮市では5歳児になるときに保育園から幼稚園に移る傾向が強いためです。

<表1>
4歳児(前年)
5歳児
保育園を辞めた子
その割合
平成元年
359
23
336
94%
平成6年*
301
35
266
88%
平成10
246
20
226
91%
平成15
259
58
201
78%
平成20
238
66
172
72%
平成22
213
105
108
51%
平成24
233
114
119
51%
*平成4年の4歳児のデータがないため、基準を平成6年とした
(新宮市の福祉から作成)

 上の表は同じく「新宮市の福祉」から作成したものです。保育園への途中入園者を考慮していないので、完全に正確な数値とは言えませんが、ここからどれだけの児童が5歳児になるときに幼稚園に移っているのか、その傾向は掴むことができます。平成元年にはおよそ94%の平成24年にはおよそ51%の児童が保育園から幼稚園に移っています。逆に保育園に残る5歳児は平成元年がおよそ6%、平成24年がおよそ49%です。平成元年から平成24年にかけて保育園を辞める児童は減少傾向にありますが、51%という割合は依然として大きものです。一般的には5歳児になるタイミングで保育園を辞める子どもはごくごく僅かです。保育園を辞める理由には転園、転出も考えられますがそれは限定的でしょうし、5歳児になる時に保育園を辞めて家庭保育をするとは考えにくいため幼稚園に移ったと考えるのが自然かと思います。このことは以降、新宮市の保育園と幼稚園の関係を説明する中でより明らかとなります。


2. 4歳児から5歳児になる時期になぜ保育園を辞めるのか?
 新宮市には5歳児になったら小学校の準備をするために幼稚園に行くという慣習とそれを促す仕組みがあることがその理由です。

(1) 5歳児(1年制)幼稚園
(2) 学校の幼稚園という意識
(3) 幼稚園に行く慣習

新宮市には平成24年度に丹鶴幼稚園(3年制)が開園するまでは、5歳児の1年制幼稚園しかありませんでした。3,4歳児を受け入れることができる幼稚園がなかったのです。過去にはテレジア幼稚園という私立幼稚園が3,4,5歳の3年制保育を実施していましたが、そのテレジア幼稚園が閉園して以降、丹鶴幼稚園が開園するまでは長らく5歳児を受け入れる1年制の幼稚園しかない状態が続いていました。
また、その1年制の幼稚園の位置づけは学校の幼稚園というものであり、少なくとも保護者の間ではそのような感覚が共有されていました。背景には、市内にある幼稚園は附属幼稚園ではないものの、小学校に隣接して建てられており、名前も小学校と同じ地域名が付けられていたことがあります。さらに、現在は廃止されていますが、近年まで幼稚園には校区が定められており、小学校のようにどこどこの地区に住んでいる子は○○幼稚園に行くという決まりがありました。つまり、幼稚園に入園した児童はそのまま指定された小学校に行くことになり、幼稚園は小学校に行くための準備をする場所という雰囲気が生まれやすい環境にありました。事実、保護者の間では幼稚園に行って小学校の準備をしないと出遅れてしまうという意識が強く、中には仕事を辞めて子どもを幼稚園に行かせる親もいるそうです。また、保育園に比べて幼稚園の方が保育料が安くなる場合があることもそれを助けています。
このような1年制幼稚園の仕組み、学校の幼稚園というイメージ、そして保護者の意識が5歳児になったら幼稚園に行くという流れを作っているのです。


3. なぜこのような保育園・幼稚園関係が成り立っているのか?
 
 通常の保育園・幼稚園関係ではこのような仕組みは成り立ちません。なぜなら保育園と幼稚園はその役割が明確に区別されているからです。保育園は「保育に欠ける子」が行くところ、換言すれば両親が働いていたり、病気であるなどの理由で、子どもを保育できない家庭が利用する施設で、誰もが利用できるわけではありません。しかし、新宮市ではこのような明確な区別は採用されていません。



 上の図のように、新宮市では保育園と幼稚園を横並びの関係ではなく、一体の関係として扱っています。これは現在推進されている幼保一元化の考えと通じるところがあるのではないかと思います。
 しかし、なぜこのような仕組みが成り立っているのでしょうか。

(1) 3,4歳児を受け入れる幼稚園がなかったために、保育園が幼稚園の機能を担ってきたこと
(2) 幼稚園に行った後も、学童保育などにより児童の居場所が確保されていたこと

 理由の一つは、既述したように3年制の丹鶴幼稚園が開園するまでは、3,4歳児を受け入れる施設は保育園しかなく、子どもを集団の中で成長させたいと思う保護者にとっては、労働に従事しているか否かに関わらず、保育園が唯一の選択肢となったためです。日常的に子どもを受け入れる子育て支援センターはありますが、常に一定数の子どもを受け入れる保育園や幼稚園とは異なるものでしょう。ここから、新宮市においては保育園が幼稚園の役割も兼ね備えていたと言えます。
 5歳児になると、1年制の幼稚園がありますからそこが新たな選択肢となります。この幼稚園には「小学校の前段階」というイメージも加わって、<表1>で示したように多数の児童が保育園から移って行きます。<グラフ1>や<表1>にあるように、近年は保育園に残る人も多くなってきています。しかし、平成元年などの平成の初期には大多数の児童が保育所から幼稚園に移っていたのです。幼稚園に移った児童には、一般的には保育園を利用する家庭の児童が含まれていると考えられます。全部の保育園ではありませんが、当時はそもそも保育園に5歳児クラスがなかったところもあったとのことです。
 そうなると、遅くまで両親が働く家庭では幼稚園が終わった後のお迎え等が問題となりますが、新宮市では学童保育が幼稚園児にまで開かれており、児童はそこで幼稚園終了後の時間を過ごすことができました。今日では考えにくいことですが、中には自力で家まで帰った子もいたようです。


4. 新宮市幼保関係の整理

 新宮市の幼保関係は非常に特異なものであると言えます。平成24年に3年制の丹鶴保育園が出来てからは状況が変わりつつありますが、以前は3,4歳児を受け入れる幼稚園がなかったため、市内の児童は一度保育園に入り、そして5歳児になるときに大半の児童が1年制の幼稚園に入園する。そして、1年後に揃って学区内の小学校に入学する。これが主流でした。この仕組みに関する検討と現状の幼保関係の課題は次回に譲りたいと思いますが、紀伊半島の南端でこのような特異な幼保関係が周囲の市町村の影響を受けずに維持されて来たことは非常に興味深い事例であると思います。
 新宮市に在住の方は、保育園を退園後に幼稚園に行くことも、1日のうちで幼稚園の後に学童保育に行くことも、当たり前で気にも留めないことかもしれませ。しかし、本来別々の存在である保育園と幼稚園が、ある種の役割分担と一体感を持って共存してきたことは、今日繰り返し議論されている幼保一元化の仕組みを作るヒントであるかもしれません。